艦船と城のCGモデルの部屋
熊本城天守の忍返し(鉄串)
熊本城の小天守の下部には鉄串が設置されていたが、大天守には無かったとされている。
これは自分もそう思っていたが、CGを作成中、資料をあさる上で、実は大天守にもあったのでは?
と思わざるを得ない古写真があったので一応報告したいと思う。
もちろん私の見解は間違っているかもしれないが、歴史の事実に一石を投じることができればと思い報告する。
写真は、現在鉄筋コンクリートで復元された天守(震災前)である。大天守には鉄串はない。
天守の古写真(特に西面)は複数枚残されており、詳細は
・古写真に探る熊本城と城下町 富田紘一著 に詳しく紹介されている。
富田氏考察による天守古写真の雨戸や屋根の状況等からの年代特定も記されており、大変参考になる。
天守西面が明瞭に撮影された時の撮影条件は西日が当たっている時であり、それ以外の時間では大天守の「張出し造り」の為に影が大きくなり鉄串は影に埋もれてみることができない。
上述の書籍では大きく5枚の天守古写真が紹介されており、これらは明治7・8・9年に分類され、明治7・8・9年が4枚、明治9年後期が1枚となっている。特に注目すべきは、明治7→9年前期は天守は次第に痛んでいく様子が見て取れるが、明治9年後期には明らかに修理されていることである。
そして明治10年に焼失するのである。
本題にもどるが、明治7・8・9年の4枚の古写真の内、2枚は大天守の鉄串が明瞭に映っていることである。
他の2枚は影の影響と不鮮明で確認はできない。
そして明治9年後期の古写真では、大天守の鉄串は明らかに無くなっていることがわかる。
これは修理の時に取り外したと考えられる。
上述の書籍よりも比較的入手しやすい書籍として
・レンズが撮らえた 幕末日本の城 山川出版社 がある。
裏カバーに載っている古写真が明治8〜9年頃で大天守の鉄串が映っている。
P232の天守は明治7年9月以前で、大天守に鉄串が存在すると予想できるが、残念ながら影と不鮮明で鉄串の有無を確認できない(小天守の鉄串も不明瞭)。
P233の天守は書籍では明治7年頃と推定紹介されているが、これは富田氏の解説によれば、明治9年の修理後から
明治10年2月の焼失前までの期間の撮影であり、大天守の鉄串は当然確認できない。
熊本城の天守は惜しくも焼失してしまったが、当時の人々が修理して維持管理していこうとしていた状況が古写真から読み取れたのは、正直感動した。現在震災で損傷してしまった熊本城の復興に対する気持ちは、なんら当時の人々の思いや願いと変わらないのだと痛感した。
2017年4月 記載
熊本城天守雪隠(せっちん)便所の検証
熊本城の天守には雪隠(便所)が空中に設置されていたことで有名だが、CGを作成する過程で
「果たして現在の復興天守の形状は正しいのか?」と疑問に感じ、そのまとめをここに記す。
まず、熊本城天守方御間内之圖(1798年)の図に雪隠が東側と西側の二箇所に設置されていたことがわかる。
ただし、西側の雪隠は、幕末の古写真に存在していなことが明確なので、撤去されたのであろう。
東側の雪隠は天守焼失するまで存在していたようで、古写真にわずかに確認できる。
ただ、写真を分析すると、現在の復興天守の雪隠とは随分形が異なることに気がついた。
①御間内之図より雪隠は2部屋に別れているのだが、南側と北側で部屋の大きさが異なり外壁に段がある
② ①において、昭和9年に明和6年(1769年)の城内御絵図を写した絵図は、段が無いが写し間違えか?
③復興天守は雪隠に隣接する大天守側の窓を省略している。
④古写真を分析すると、現在の雪隠の屋根の形状に見えない(90度流れ方向が異なる)
下の古写真は熊本市の平座衛門丸塀整備事業計画書に載っていた写真である。黄色と緑が雪隠部。
また、下のCG画は「古写真に探る 熊本城と城下町 富田紘一著」のP49にある古写真をほぼ同じアングルでCGに起こしたものである。赤丸部に雪隠の屋根が一部みえる。
これらの結果を踏まえ、考察するに正しい雪隠の形状と屋根は下図のようであったと推測される。
ちなみに、現在の復興天守のような屋根形状をCGで再現すると下図のようになる。
これらの研究は個人の憶測ですので、実際には違うかもしれないことをご了承ください。
2017年4月 記載
追記:2020年5月発売の「古写真で見る幕末の城」(山川出版社)に、鉄串に関して同意見と古写真が掲載されましたので、鉄串に関しましては、大天守にも存在していたことが確定となりました。